はんとし
*その土嚢は
「悲惨でかわいそうな人たち」を見せることで進む運動があるとする。もちろん「悲惨」なさまを強いられる人たちを世に知らしめることは必要なことである。がしかし、「悲惨でかわいそう」でいなければ、そんな姿を晒していなければ、まともに暮らせないという声がそんな「悲惨でかわいそうな人たち」から上がったら、もっとずっと昔にも上がっていたならばどうだろう。それでも「悲惨でかわいそうな人たち」の姿を最前線に土嚢のように積み上げて運動を続けるのだろうか。
この間いくつかのデモや集会があった。どうしても意欲的に参加出来ないのは上記の理由もあるが、公共的な運動を支持して来た者として、私的領域を守ることを至上としたデモや集会にはどうにも近寄り難いものがあるのだ。かつての有能な活動家に求められていたものは、私的領域を削っても公共運動に賭ける熱意だったんじゃないだろうか。人一倍働き、人一倍活動することが有能な非専従の労働運動家じゃなかったんだろうか。
デモや集会では世の中は変わらない。これは皮肉でもないし、反動的にお喋りをしたいわけでもない。おれ自身デモや集会の重要さを知っている。だからこそ言わなければいけないのだ「デモや集会では世の中は変わらない」と。デモや集会は同じ志を持つ人びとの交流の場である。同じ志を持つ人の共通認識の確認の場である。大切な時間を使いその時を信じて集まる者達の団結の場である。それ以上の意味はない。残念ながら政治的決定はもっと別の力関係で行われる。けれどもそれが「世の中が変わる」ことを諦めさせるようなことでもない。「世の中は変わる」あんたの腹ひとつで。あんたの土嚢を見てみなよ。
震災から半年が経った。人を悼むには、全く知りもしない人を悼むには、その人の名前を読み上げること以外の方法をおれは知らない。彼ら彼女らの物語をおれは何一つ知らない、何一つ手にしていない。いつでも忘れられるし、いつか忘れてしまう。だからせめてそれまでは名前を呼びたい。
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