レコードコレクターズ
*9月号
いつもより早く入荷しております。特集ドアーズ。
ミュージックマガジンは来週中ぐらいでしょうか
*でそのミュージックマガジン
先月売りの8月号の中村とうよう「とうようズトーク」
つまり明白になったのは、死刑反対屋たちの反動性である。彼らは、今どき死刑などという制度を持っているのは日本ぐらいだ、こんな時代後れの制度は直ちに廃止しないと恥ずかしい、ってのが口癖だ。だが光市の差し戻し控訴審で露呈したのは、硬直化した死刑反対マニアのほうこそ時代に後れているという事実だ。彼らはわが国の司法制度を歪めている張本人だ。ニッポンの裁判の欠陥を正すには、弁護士の行動もわれわれ民衆の監視のもとに置く"弁護人弾劾制度"を創設し、それによって死刑反対屋どもの卑劣な裁判作戦を不可能にしてしまうしかなさそうだ。
"弁護人弾劾制度"などよりも、死刑が大好きな中村とうようの様な人々のためには"死刑執行人の国民からの無作為の抽出制度"を設けたほうがいいんじゃないでしょうか?死刑は国家が国民の名の下に国民を代行して行う殺人行為ですから、国家なんぞに代行させずに住基ネットの番号を無作為抽出して(宝くじの当選発表みたいにするといいんじゃないですか)見事当選なさった方(これは老人だったり子供だったり、もしかしたら生まれたばかりの赤ちゃんかもしれません)が思い思いの方法(が望ましいのですが、絞首での殺人が刑法で規定されています。ただ、人が絞首で人を殺すのはかなりの労力を要すると思いますのでこの場合、銃殺/刺殺のように道具を用いての殺人も考慮すべきだと思います。ボタンを押し床板が抜ける。などという機械作業は殺人としてのリアリティがないので直接人が人を死体化する作業を遂行すべきです。)で死刑囚を殺せる。というシステムのほうが、現行の死刑制度よりリアルに死刑囚を殺す事が国民に実態として伝わると思います。死刑とはそういう制度です。「死刑制度」には賛成であるが「殺人」をしたいわけではない。などという批判はここには当てはまりません。自分が手を汚さずに殺人に加担している事を黙認しているにすぎません。死刑は国家規模の殺人です。すべて国民は「死刑」に加担しています。殺人とは生きているものを死体化する行為だという事をリアルに感じる事が必要だとおれは思います。中村とうようのいう「われわれ民衆」にどういった人々が含まれるのかさっぱり分かりませんが(おれがその「われわれ民衆」に含まれていない事を心から願います/含まれたくありません)、中村とうようが死刑という制度についても、彼のいう「わが国の司法制度」についても全く考えていない事がこのコラムで分かりました。被告が弁護人を立てるという刑事裁判の基本ラインすら否定しようとしているとしか思えません。「死刑反対屋の反動性」なんかよりも中村とうようの空疎な反動性のほうが「明白」になっているのではないでしょうか?そもそも「時代後れ」だなんて、中村とうようは自らの言説が「時代」を先行しているとでも思っているのでしょうか?思い上がりも甚だしいですね。反吐が出ます。げろげろげろげろ。
「死刑反対屋」を批判する人々は「われわれ民衆」(とやら)の名の下に殺人=死体化行為が行われていることをもっと真面目に考えるべきです。集団リンチで「殺せ殺せ」と叫ぶ群衆のひとりであることを自覚するべきです。集団リンチで殺人をする当事者になる可能性を想像すべきです。もちろんおれは集団リンチを見物してニヤニヤと正義ヅラした「われわれ民衆」には属したいなどとは思いませんし、死刑にももちろん反対です。殺人などしたいとは思いません。
おれは「生殺の権利」を国家が握っている事が我慢なりません。死刑囚は死刑宣告後なぜすぐに死刑に処されないのでしょうか?なぜ死刑に処されるまで食事を与えられるのでしょうか?なぜ自殺防止の監視をするのでしょうか?刑に処さないまでも死刑囚が勝手に死んでくれるのならば都合がいいんじゃないでしょうか?そこまでして国家が「生殺の権利」を死刑囚の眼前にぶら下げるのは何のためでしょうか?反対になんで国家はおれに健康であれと迫るのでしょうか?人間の尊厳や生命の尊厳のためでしょうか?死刑囚の死刑執行までの生命の尊厳ってなんでしょうか?国家がおれや君やどっかの誰かや死刑囚を生殺与奪権に従属させるのは何故でしょうか?
おれは「死」についてここのところ考えていますが、結局たどり着くのは「生はよい」ということでした、これは「善き生」という意味合いの「生」ではなく、「生きることは肯定される」という考えです。生を肯定すると「殺」は否定されます。生きることはよい、殺すことはない。とシンプルに思いました。そんなことは常識だ、とか当たり前だ、と思う方も多いかもしれません。だけれどもこの世には「肯定されていない生」があちこちに転がっています。脳死という生(と臓器移植についての議論)。末期症状を宣告されたものの生(と安楽死についての議論)。妊娠段階で先天的な障害の認められる胎児(と堕胎についての議論)。これらの生のおかれた状況を「とるに足らないこと」「無意味なもの」とし、ことあるごとに「死」に意味づけを施し「良き死」と「とるに足らない生」に振り分ける言説が溢れていることを小泉義之の著作から学び、多いに刺激を受けました。人が死ぬ時になぜ人はそばにいるのか/いなくてはならないと強く思うのか。ということについてはリンギスから多く学びました。それでもまだ分からないことは多いので考えつづけることにします。ただ「死」のことではなく「生から見える死」のことを。
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コメント
そのような記事があったとは、知りませんでした。
確かに大手を振ってそういうことをいう人たちの話には、「肯定されていない生」のことは出てきませんね。
子どものころ、漠然と思ったことはありますが、いま大人になってこの文章をみて驚いたです。
まるで考えないように仕向けられてきたみたいで・・・
投稿: 라지파파 | 2009年5月23日 (土) 21:36
>라지파파 さま(申し訳ありませんハングルの知識がないためどのようにお呼びして良いのか分かりません)
コメントありがとうございます
弊ブログが何かのご参考になったようでしたらうれしいです。
「肯定されていない生」に関しましては
小泉義之「病いの哲学」
立岩真也「良き死」「唯の生」
などから多くの示唆に富む事柄を教えられました。もしご興味ありましたらご一読ください。
投稿: 中の人 | 2009年5月24日 (日) 12:34