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ぶろうか

*さぁさぁ
店内整理も終わり(いや、東京に行くヤツとかそのまま箱に入れてあったり、いつも店頭に出していない様なものが出ていたりと、いつも以上にカオスですよ)ましたので、いつもの調子に戻るのであります(´・ω・`)

"「A案の修正に反対」「『原案』の採択を」―臓器移植法改正" (医療介護CBニュース)
http://www.cabrain.net/news/article/newsId/23000.html (魚拓)

結局のところ、これまでも指摘してきたように、「死んでいる」というコトを決定出来ないので法的に決定して下さい、という話だけなのだ。眼前の生きる者を「死んでいる」と判定することが、ドナー家族の負担となるであろうから、法的に"脳死"の領域を決定してあげましょう。

>『脳死の概念を「曖昧」にすると、ドナーの家族を苦しめることになり、大きな心の負担を強いる』

とは、つまりそのような意味である。

「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者」という文言を法令から削除したい、しかし、「脳死は一律に死か?」と問われれば、「臓器提供は死が前提であり、家族は『脳死が人の死』と考えるから」と答える。そしてその文言を法令から削除する理由が「ドナーの家族の負担」などというのはどういうわけなのだろう。

"拒否の意思"を示さぬ限り、"脳死"(これは法的に決定される)者の身体は臓器資源となる。というのがA案である。「脳死の概念」がどうであるか、"脳死"状態の者を前にして、家族が臓器移植のための"脳死"の決定をせまられるといったこと以前に、眼前の"脳死"状態者が生前に何らかの意思を示しているのか?という事の方がより重要なのではないだろうか。もしかして、ここは慎重に訊いておくが、すでに「脳死=人の死」という前提をもって話をしようとしていないか?、さらに慎重に訊ねたいが、"脳死"者を法的に確定させる事でさらなる資源確保を目指してはいないか?、さらにさらに慎重に訊ねたいが、臓器移植というエキセントリックで高額な医療を指向し、そのための捨て駒を物色しているのではないのか?。

ここから一歩踏み外しておく。
一律に「脳死=人の死」という法令が出来上がってしまうと、いま現在いる"脳死状態"を生きる者は、医療制度からは排除されてしまう。「脳死は人の死ですから、それでも延命を施したいのならご自分で」ということだ。保険も公的扶助もなくなってしまう。

そのように"脳死状態"を生きる者が医療制度から排除され除外されるのならば、同じように、"もうすでに死んだ者"として扱われるべき、"法的なお墨付きを獲た脳死者"も医療制度から除外されるべきである。何故ならば医療制度とは死体を捏ね繰りまわす事業ではないからである。死体の扱いを巡ってああでもないこうでもないとお喋りする事は、医療事業に従事する者の仕事ではなく、葬儀屋、坊主その他の世俗宗教屋、死体愛好家の仕事である。それなのに、さも当然といった顔で、医療従事者たちは、"脳死"者の取り扱い、"脳死"者の所有権、新鮮な臓器と、お喋りを続けているのである。医療従事者たちこそが真の意味での「臓器ブローカー」であり「ハイエナ」なのである。こんなことは現状の高額な治療費/手術費を見れば明らかな事だろう(そもそも治療費や手術費を募金で賄わなければならない、などという事もバカげている)。

ドナーは自身の臓器という資源を持ち、その資源は他ならぬ自分のものであるのだから、その自身による使用や提供をどうこういうつもりは毛頭ない。しかし何故にそのような他ならぬ自分のものをタダでくれてやるのか、とは思う。おれの様な俗物にはない無償の供出があることも分かっているが、そのような他ならぬ資源を医療従事者だけが金銭に交換して何食わぬ顔をしていて善いものなのか。おかしくはないだろうか。

"自己決定"であるならば、その提供先の決定までも含めて"自己決定"であろう。レシピエントを決定出来ぬ"自己決定"など片手落ちだし、このような制度を医療事業者たちが独占しようとする感覚も不快だ。

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