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おっおっ

*明日は
臨時休業いたしますです

赤いチームは勝ちましたな(^ω^)

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きかんしゃ

*今度の
日曜日の7/12は法事があるんで臨時休業しますね。
誰か店番してくれるんなら開けられるんだけど今回はアテがないので。

*来週の
渋谷レコードサマーカーニバルにむけてシコシコ作業してまして、新着盤を随時店頭に出してますんで近所の方はどうぞ。帯付きとか、オリジナルとか、激レアとかそういうのはほとんどないです。マジで興味ないんで。でも、対面販売だと面白いもんが出てくるので、知らない事は訊こう、そしてレコードを聴こう、で買ってくれ。うちの店は音楽の中身にしか興味ありません。

*ドールという
30年続いた雑誌が今月で廃刊(スタジオヴォイスも廃刊なんだね)になって、もう雑誌はネットに取って代わられた、って皆さん仰るんですけど、ネットにある情報なんて氷山の一角よ。聴いた様な気になったり、見た様な気になったり、体感した気になったりしているだけで、実際のトコは何も経験してないんだから。結局、授業料払ってないモンは身に付かないって事。

小坂忠Live - 機関車

忘れものはもうありませんねと
機関車は走るのです
きみはいつでも
僕の影を踏みながら
先へ先へと走るのです

目がつぶれ
耳も聞こえなくなって
それに手までしばられても

乗り遅れまいと
急ぎすぎた僕は
もう止まらないレールの上
藍色した嘘の煙をはきながら
僕は君を愛しているんだ

目がつぶれ
耳も聞こえなくなって
それに手まで縛られても


乗り遅れる事なんて恐れる事ないんだぜ。
それよりも、見ようとしなくなった時、聞こうとしなくなった時、そんな時こそが、手まで縛られちゃった状態なんだよ。

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ひよりみ

*ゲバリスタ
というよりも、おれは"浪曲的"とか"新内的"あたりの著作に強く影響受けましたですよ。

"評論家の平岡正明さん死去 「山口百恵は菩薩である」" (asahi)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0709/TKY200907090217.html

「ウェザー・リポート」は、いい。しかし、だぜ、ジャズってのは一発で決めなければ意味がない。想い出しておくれ。パーカーが出て来たとき、オーネットが飛び出してきたとき、そして60年代のはじめコルトレーンが快進撃をはじめたとき、ジャズ史にてらさずに、われわれはいちころだった。反対派は目を剥き、賛成派は飛び上がって天井に頭をぶつけ、かくして全ジャズ・シーンはあれよあれよと狂走したのだ。ジャズ・シーンのチェンジはいつでも力づくだったのだ。「風見鶏(ウェザー・リポート)」はそよ風が吹いてきた方向に頭を向けて、アサーと鶏鳴を告げただけではないのか。

平岡正明"ジャズ・フィーリング" (p.150-151) 1974

気がつけば、評論家は、批評家は、「風見鶏(ウェザー・リポート)」ばかりじゃないのか。

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ぶろうか

*さぁさぁ
店内整理も終わり(いや、東京に行くヤツとかそのまま箱に入れてあったり、いつも店頭に出していない様なものが出ていたりと、いつも以上にカオスですよ)ましたので、いつもの調子に戻るのであります(´・ω・`)

"「A案の修正に反対」「『原案』の採択を」―臓器移植法改正" (医療介護CBニュース)
http://www.cabrain.net/news/article/newsId/23000.html (魚拓)

結局のところ、これまでも指摘してきたように、「死んでいる」というコトを決定出来ないので法的に決定して下さい、という話だけなのだ。眼前の生きる者を「死んでいる」と判定することが、ドナー家族の負担となるであろうから、法的に"脳死"の領域を決定してあげましょう。

>『脳死の概念を「曖昧」にすると、ドナーの家族を苦しめることになり、大きな心の負担を強いる』

とは、つまりそのような意味である。

「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者」という文言を法令から削除したい、しかし、「脳死は一律に死か?」と問われれば、「臓器提供は死が前提であり、家族は『脳死が人の死』と考えるから」と答える。そしてその文言を法令から削除する理由が「ドナーの家族の負担」などというのはどういうわけなのだろう。

"拒否の意思"を示さぬ限り、"脳死"(これは法的に決定される)者の身体は臓器資源となる。というのがA案である。「脳死の概念」がどうであるか、"脳死"状態の者を前にして、家族が臓器移植のための"脳死"の決定をせまられるといったこと以前に、眼前の"脳死"状態者が生前に何らかの意思を示しているのか?という事の方がより重要なのではないだろうか。もしかして、ここは慎重に訊いておくが、すでに「脳死=人の死」という前提をもって話をしようとしていないか?、さらに慎重に訊ねたいが、"脳死"者を法的に確定させる事でさらなる資源確保を目指してはいないか?、さらにさらに慎重に訊ねたいが、臓器移植というエキセントリックで高額な医療を指向し、そのための捨て駒を物色しているのではないのか?。

ここから一歩踏み外しておく。
一律に「脳死=人の死」という法令が出来上がってしまうと、いま現在いる"脳死状態"を生きる者は、医療制度からは排除されてしまう。「脳死は人の死ですから、それでも延命を施したいのならご自分で」ということだ。保険も公的扶助もなくなってしまう。

そのように"脳死状態"を生きる者が医療制度から排除され除外されるのならば、同じように、"もうすでに死んだ者"として扱われるべき、"法的なお墨付きを獲た脳死者"も医療制度から除外されるべきである。何故ならば医療制度とは死体を捏ね繰りまわす事業ではないからである。死体の扱いを巡ってああでもないこうでもないとお喋りする事は、医療事業に従事する者の仕事ではなく、葬儀屋、坊主その他の世俗宗教屋、死体愛好家の仕事である。それなのに、さも当然といった顔で、医療従事者たちは、"脳死"者の取り扱い、"脳死"者の所有権、新鮮な臓器と、お喋りを続けているのである。医療従事者たちこそが真の意味での「臓器ブローカー」であり「ハイエナ」なのである。こんなことは現状の高額な治療費/手術費を見れば明らかな事だろう(そもそも治療費や手術費を募金で賄わなければならない、などという事もバカげている)。

ドナーは自身の臓器という資源を持ち、その資源は他ならぬ自分のものであるのだから、その自身による使用や提供をどうこういうつもりは毛頭ない。しかし何故にそのような他ならぬ自分のものをタダでくれてやるのか、とは思う。おれの様な俗物にはない無償の供出があることも分かっているが、そのような他ならぬ資源を医療従事者だけが金銭に交換して何食わぬ顔をしていて善いものなのか。おかしくはないだろうか。

"自己決定"であるならば、その提供先の決定までも含めて"自己決定"であろう。レシピエントを決定出来ぬ"自己決定"など片手落ちだし、このような制度を医療事業者たちが独占しようとする感覚も不快だ。

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れんらく

*帰って来ておりますよ
仙台でお世話になりました皆様ありがとうございましたです。
営業はしていますが、全く整理出来てませんので、そのような覚悟の上ご来店くださいませ。

・中野から来た人、ごめんなさい
・ネグリの人、雨で滲んで字が判別出来ませんです、またお越し下さいませ
・ブレッカーの人、何やら入ってますよ

以上連絡おわり(´・ω・`)

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